♪第89回月例会報告(10/2)

〇会場は藤沢市のFプレイス・ホール。歌唱指導おざきかよさん、ピアノ伴奏すやまひろみさん。
〇10月31日に予定している「8周年記念コンサート」を前に冒頭の代表挨拶と月報で、コンサートのステキを大いにPRしました。

[この日、歌った歌]
*花咲爺 *かちかち山・・・9月の昔話特集の続きで・・・ *宵待草 *箱根八里
*夢路より *カチューシャ *女心の歌 など。

[月報 No.88 要約] [楽しく歌う、について考える・・・8周年コンサートを前に]
●湘南童謡楽会の歌友、音楽好き・歌好きの私達です。月例会の歌唱指導者おざきかよさんや宮本史利さんが選曲される折々の歌を、どう歌えば真の楽しみや幸福感を得られるか? と私はいつも考えています。その答えは「お二人の指導のままに」が一番なのは間違いありませんが、次の大事は何でしょうか?
●それは「自分を信じ・自分の声を愛し・自分の歌を慈しむ」という3つの意識をもって歌うことでしょう!雑な物言いながらそう思います。私はCDやTV、ラジオで好きな歌を聞き口ずさむ際、その3つの意識をもって歌います。すると自然と楽しく歌え、もっと綺麗に歌おう、もっとうまく歌おうという向上心も沸きます。私に限りません。3つの意識をもって歌えば清明な声の人もハスキー声の人も、歌の上手下手に関係なく誰でも自分の歌が心地よく聞こえ、結果、歌って楽しいと思うはず――と私は信じています。自分の声を、自分の歌を、愛さなくちゃ! その気持ち一つですね!
●オペラ歌手宮本史利さんの歌いっぷりを思い出して下さい。3つの意識の塊に見えませんか? 朗々たるバリトンがど~んと心に響きます。イタリア仕込みのオペラ的演技力もさすがで、聴く人を魅了します。10月のコンサートでは、宮本さんと参加者とで「イランカラプテ」も歌います。髙橋望さんのピアノ独奏(ショパンの「英雄」など)とのダブル・コンサートこそ、楽しさの極地です。どうかお聴き逃しなく!
●楽しく歌う次のカギは、夫々の歌を「どう歌うか」でしょう。これが最後の決め手であり、わが例会でもそこにフォーカスしているのはご存知の通りです。以下に「どう歌うか」につき小考察します。
[どう歌うか、について考える・・・<どう歌うかはどう生きるか>です。]
■先月の「昔話の歌」シリーズでは、浦島太郎など7曲を取り上げ、昔話をショート・ストーリーとして創作、2人ナレーター(おざきさんと宮崎)で語り、それを前振りにして各曲を歌うというやり方で楽しみました。「忘れていた昔話を思い出し味わい深く歌えた」等と好評でした。そんなの必要ないと思った人もあったかも。しかし童謡・愛唱歌の名曲を単にどんどん歌うのもありですが、私はそれにはくみしません。名曲ほど曲の全体をその芯まで理解し味わい深く歌うことが、音楽との良い向き合い方だと思っています。
■歌と良く向き合うとは、歌を理解し➡好きになり➡リスペクトし➡不断に歌い➡もって己の人生を豊かにすることにほかなりません。名曲をただ歌うのではその展開は望めません。ではどう歌うか。良き工夫が必要です。「どう歌うか」の工夫は真の楽しみや幸福感を得るためであり、「どう生きるか」の追求に通じます。<どう歌うかはどう生きるか>です! 何あろう、私達、歌の人生登山をしているのですから!
■会員さんからの電話が時々あります。前号にも書きましたが、「病気が快復したので久しぶりに参加します」「童謡楽会の例会は生き甲斐。脚が痛いけど頑張って行きます」と参加宣言される電話もあり、これには大感激。わが会でどう歌いどう生きるかを追求していらっしゃる姿が伝わってきます。また、新入会以来ほぼ欠かさず例会にご精勤の方々も少なくなく、一方、仕事などで例会の日が合わない中、懸命に都合をつけ時々ご参加いただいている方々もいらっしゃり、ともに深く感謝と敬意を申し上げています。

[人生の物語について・・・あの尾畠さんがつくる物語から学びたいこと]
1)先月、昔話の歌シリーズをやるに際し、私達は今日、年金や働き方改革などお金に係る問題に振り回されがちな中、無味乾燥な人生に陥ることを避けるために、「人生には物語が必要」と私見を述べました。物語とは小説や映画や昔話等のフィクションのほか、人の生き様も“ナマの物語”(歴史も含め)であることは言うまでもありません。非現実・現実の物語が人生になぜ必要なのでしょうか? 物語は夫々のテーマを通し、私達に感動や希望、救いや慰めをもたらし生きる勇気を与えてくれるからです。一方でさまざまな労苦や悲しみを抱えて現世を生きる私達は、苦境脱出の“光明”や“救い”を求めており、その答えやヒントを得るのに身の周りにある物語ほど適切なものはない、と私は考えています。
2)尾畠春夫さん(79歳)の名を覚えていますか? 彼は昨年8月15日、山口県周防大島で行方不明になった2歳の男児を、捜索開始からたった30分で探し出した大分県のボランティア活動家。150人もの捜索隊が3日間も探せなかったのに、過去の体験から「山道を上へ上へ上っていったに違いない」と見当をつけ、テキパキ行動し奇跡の発見を成し遂げたのです。男児を抱きかかえて下山、家で待っていた祖父に引き渡すと、「せめてお風呂を」と頭を下げる祖父の願いを断り、相棒の自家用車で風のように走り去ったそうで、最後までカッコいいヒーローでした。空前絶後の“物語”です。このニュースに接し私達は、自分には真似も出来ないと驚きつつ、坊や良かったねと胸をなで下ろし、同類の事件への対応策とか幼児の見守りとかの教訓を得て、自分の中でニュースを終わらせるのが普通だと思います。そして、こうした胸のすく物語にいつかまた出逢いたいと願う私がいます。いい物語への人の自然な渇望です。およそ誰もがそうだと思います。悲惨な事件事故ばかりの、憂きことばかりの現代ですから。
3)私達の身近には含蓄ある“フィクションの物語”が豊富にあります。その1つ、童話も変幻自在な話の展開が特徴です。もう一点、短いのがいいですね。新美南吉の『ごんぎつね』はご存知だと思います。ストーリーはこうです。<子狐ごんはある日、兵十が川で取った魚をびくから逃がし、ウナギを持ち帰る悪戯をやらかします。10日ほど後、ごんは兵十の母の葬儀を見て、あの魚やウナギは兵十が病気の母に食べさせようとしたのだと思い後悔します。その償いのためごんはイワシ屋からイワシを盗み、兵十の家に投げ込みますが、逆に兵十が泥棒したと思われイワシ屋に殴られたことを知り、また後悔します。それから自分の力で償いをし始め、栗や松茸を毎日、兵十の家へ運びます。兵十はこの不思議を村人の加助に話すと、加助が「それは神様の仕業だよ」と言う言葉をごんが盗み聞きし、がっかりします。翌日、兵十はごんが家に忍び込んだ気配に気づき、ウナギ事件の仕返しに戸口から出るごんを銃で撃ちます。撃ったあと、栗が土間にまとめて置かれているのを見て、兵十は栗はごんが届けていたことを知り、倒れたごんに駆け寄りそのことを確かめると、ごんは眼を閉じたままうなずき息絶えました。>
4)『ごんぎつね』は子供向けの童話なので優しい語り口で書かれていますが、話の展開は実にスリリングです。読み終わると、ほろりとさせられ、泣かされもします。でも妙に心を洗われる気分にもなります。心の浄化=カタルシスってやつです。童話は子供だけのものではないですね。
5)さても、人生はいつも、いつまでもスリリングだ、と私は思っています。「禍福はあざなえる縄の如し」[塞翁が馬」と言います。いつ何が起きても一喜一憂せず、どんな時も希望をもち前を向いて歩いていく。それを出来得る限り鉄則とし、物語にも力をもらいつつ、世渡りしていきましょうぞ、ご同輩。
6)古い会員のSさんは何年か前から「感音性難聴」だそうですが、ときどき例会に参加しておられます。先日いただいた手紙にこう書いてありました。「今朝、不思議なことがありました。TVのBS3に俳優の火野正平が日本各地を自転車で訪ねる番組がありますが、今朝の放送の中で映像のバックに流れる音楽の音階が極めて鮮明に聞き取れたのです。妻に音源を聞くと「口笛」だということでした。このときは本当に久しぶりに高音もはっきり聴き取れたことで、メロディとしても聴いた気分でした・・・・・・・」。
スリリングな良きことを思わせる出来事と言えばオーバーでしょうか。恢復の兆したれ、と祈ります。

(以上。文責 宮﨑)

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